初代山形県令三島通庸をNHK大河ドラマに推薦する会
会長 梅津幸保

山形の近代化の父とされる三島通庸の山形での活躍を紹介します。

 三島通庸は鹿児島出身で、明治7年12月山形県の酒田県令として就任した(39歳)。当時酒田県は、農民騒動が激化しており、早く鎮圧しなければならない状態でした。事の発端は、明治政府が示した凶作時の石代納をすべて現物納にしたことでありました。農民は、天狗党を作り納税免除、費用免除などを掲げて抗議していました。政府は田租を米納、金納いずれでも人々の請願に任せるとしたが、酒田県はこのことを住民に知らせずに旧来の租税を励行したことから、農民から超過徴収した税を他に流用したとされ暴動が広まっていたのでした。この騒動を鎮めるため三島が派遣されました。裁判の結果、県が敗訴し、農民への配分金63,600円の配分方法として、「ワッパ」(弁当)で配分しようとしたことでワッパ騒動と名付けられました。

 大久保内務卿は三島にこの騒動を解決することと、近代日本建設の為には東北地方の開発が急務であると説明して三島の手腕にその実現を託しました。三島は翌年8月に酒田県を鶴岡に移し鶴岡県としました。酒田は県の北部にあり行政上の都合によることと、旧藩士が開墾している松ヶ岡が鶴岡に近い場所にあったからとされています。三島は、酒田で9か月鶴岡で1年を経過した明治9年8月に、山形県(村山)、鶴岡県、置賜県(米沢)が合併して現在の大山形県が誕生した際に、その初代県令として就任しました。

 三島の県治施政方針として第1に道路改修を掲げています。近代化を進めるためには物資の輸送、人事の交流を図ることであり、明治政府の掲げている、富国強兵、殖産興業、文明開化を推進することであるとしています。

 土木県令というあだ名を持つように、山形県の主要道路のほとんどが三島の手掛けた路線であり、特に福島県境にある栗子山隧道(萬世大路)は5年の歳月を費やし遂に482間(867m)の日本一長い隧道(トンネル)を完成しました。山形県から宮城県に抜ける関山新道や、秋田県に通じる三崎新道・金山街道や、新潟県に通じる小国街道など25本を数えます。特に萬世大路は文化庁の歴史の道100選に選定され、通商産業省の近代化遺産、土木学会の選奨土木遺産、未来に伝える山形の宝に登録されました。橋梁についても各河川に65橋を架設し、総延長約3キロメートルにも及びます。特に薩摩から石工奥野忠蔵を招いて、山形の石工に石橋建造技術を伝授しており、2重輪石構造の堅牢な石橋も現存しているなど、県内陸部の11橋が土木学会選奨土木遺産として認定されています。イギリスの旅行家イザベラバードが山形県を旅したときに、石橋のすばらしさを激賛しています。

 産業開発では、山形鉄瓶で知られる鋳造業を再興させ明治12年の国内勧業博覧会で好評を得ています。又農家の米単作では生計を維持できないとして養蚕業を奨励し、明治10年山形市に官設製糸工場を設立し女工を募集し、製糸法を教授振興しました。更に北海道開拓長に依頼してリンゴ、ブドウ、サクランボ等の苗木を導入し、明治10年9月に山形の植物栽培試験場で試作を始めました。そして今は、山形の名産として全国一の生産を誇るサクランボ王国となっています。

 近代化を更に進めるために、今までの建築技術を用いた擬洋風建築を披露して、新しい時代の到来を知らせる文明開化のシンボルにしたと言われています。県庁をはじめ師範学校、小中学校、勧業博物館、済生館病院、勧業製糸場、警察本署、5郡の警察署、11郡の郡役所等です。師範学校や済生館病院、郡役所の中でも姿や保存の良いものは現在国指定重要文化財となっています。

 三島は近代化推進に邁進したのであるが、強権的な手法であると批判され、鬼県令のあだ名も持っています。当時は自由民権運動家に対して、国を破滅する行動として取り締まりを強化するなどで三島との摩擦で事件が多発し、福島県・栃木県では鬼県令の名が付きました。

県令を経て本庁で内務省土木局長となり、わが国で初めて国道に番号を付けました。明治19年三島は内閣制における初代警視総監となり、保安条例を公布し治安に取り組みました。

三島の業績は道路建設だけでなく、教育道、医療道、産業道、治安道というように、「礼記」などいわゆる四書五経を学んだ儒教的な思想を基盤としていたと想定できるという研究もされています。近代化を進める中で、抵抗勢力もあり波乱万丈の人生は大河ドラマに最適と感じています。

三島は明治21年10月3日病没しました。享年53歳で、東京青山斎場で葬儀が行われ、参列者12,000人と伝わっています。青山墓地には大きな「警視総監三島君神道碑」が翌1回忌に建立され、通庸一代記が刻されています。(参考文献:山形県史資料編2三島文書、山形県の歴史他、R5,9/22)

山形市三島神社蔵

1835年
天保6年 6月1日(新暦6月26日)、薩摩国鹿児島郡武村(現在の鹿児島市)に
生まれる。
1862年
文久2年 寺田屋事件に連座し捕縛、謹慎となる。
1868年明治元年 戊辰戦争に従軍。
1871年明治4年 東京府に出仕。
1872年明治5年 5月、東京府参事となる。教部大丞も務める。
1874年明治7年 12月、酒田県令に就任。ワッパ一揆を弾圧する。
1875年明治8年 8月、鶴岡県令に就任。
1876年明治9年 8月、山形県令に就任。
1881年明治14年 明治天皇東北巡幸に際し、自ら県内を案内。
万世大路の開通式を盛大に催す。
1882年明治15年 1月、福島県令を兼任(7月より福島県令専任)。
福島事件で自由党員を弾圧する。
1883年明治16年 栃木県令を兼任。
土木事業を強力に推進し、「鬼県令」と称される。
1884年明治17年 内務省土木局長を兼任。加波山事件が起こる。
1885年明治18年 12月、警視総監に就任。
保安条例を執行し、自由民権運動を弾圧する。
1886年明治19年 肇耕社を解散し、三島農場として再出発する。
1887年明治20年 5月、子爵となる。
1888年明治21年 10月23日、東京で死去。享年53歳。
正三位勲二等旭日重光章を授与される。

三島通庸は、近代日本のインフラ整備に大きな足跡を残した人物として、その功績と手法の両面から評価されています。